私、今枝潔美は昭和32年5月29日に大須の産婦人科で昼前に産声をあげました。すこぶる安産だったそうです。
父親は私が無事生まれた事を聞いてアメリカへ半年間研修に行きました。生後一年で今の新栄の家へ引っ越してきました。
新栄小学校では可もなく不可もなく 小学校4年生の時にはソフトボール部で同時に西川流の光女先生に日本舞踊を習っていました。
初舞台では文化講堂でお染久松の久松役と手習いを踊りました。
なかなかの色男ぶりだったそうです。
中学は白山中学で一年生の時体操部に入り練習に励みましたがアキレス腱を痛めやむなく休部。
中学2年になる春休みに豊田の尼寺に預けられ朝一起きたらすぐ広い庭の落ち葉掃除、朝食、読経、茶道、老尼のカミソリあてなどを経験し、その尼寺の縁で家の近くの尼寺で茶道、華道を習得することとなる。
高校では瀬戸にある聖霊高校で両親が、何を思ったのか勝手に寮に入るよう手続きをして来てしまい、仏教徒の家で育った私が一年間寮でどっぷりキリスト教中心の生活をしました。
寮長はシスターで、朝の祈りから夜の祈りで消灯。消灯後、ベッドの中で懐中電灯をつけてマンガ本を読んでいるときに、シスターに布団をめくられマンガ本を没収されたり、男子禁制の寮にアナコンダのような大蛇が出没し警察と数人の男の人が捕獲しに来たりと今思えば面白い一年でした。
高校2年生の時文化祭で英語劇のロミオとジュリエットを上演し、ジュリエット役は美人の先輩、私はロミオ役でした。
大学もそのまま聖霊の家政科に進学。
1年生の夏に初めて自分で縫った浴衣を持って一カ月間アメリカのアリゾナ州にホームステイをしました。当時、1ドル360円という大変円安で両親には大変な負担をかけました。
短大卒業後、常盤女学院の洋裁部に入学。ブラウス作製時、台襟の部分を反対につけてみたりと洋裁のセンスがない事を自覚しました。
昭和54年3月18日に弱冠26歳とまだまだ若い兄が交通事故により死亡。
今枝敬雄の実子は私一人となってしまいました。
その後、結婚 出産一人娘を授かり今は頼もしい私の片腕となってくれています。子育ても一段落してからは、医療事務の資格を取ったりエアロビクス、太極拳、自彊術で体を鍛えています。
父は現職の時と変わらず引退後も地域に密着した政治を志し、少しでも地域の皆さんがより良い生活が送れるよう広範囲において活動していました。
そのため、いつも事務所は賑やかでした。
私も父と行動を共にし様々なところへお邪魔し、いつも父の背中を見つめていました。
ところが平成24年3月21日危篤でもないのに家族が唖然としている中突然息を引き取ってしまいました。
私たち家族、事務所の人たちもあまりに突然の事で茫然自失となり、ただただ天井を見上げているだけでした。
葬儀、告別式は実感のないまま過ぎました。
その後の一年間、事務所の片付け、父の写真の整理に追われる中、父が生前ことあるごとに「日本は大丈夫か」と日本の将来を危惧していた言葉が私の脳裏を離れず父の遺志を継ぎ地域の皆さんの少しでもお力になれるよう政治を志す決心をいたしました。
1952年 | 今枝敬雄 宮田加陽子 結婚 | |
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1954年 | 長男 幹晴誕生 | |
1957年 | 中区大須の産婦人科にて今枝家の長女として 潔美誕生 | |
1964年 | 新栄小学校入学 | |
1967年 | 父 今枝敬雄 愛知県会議員に初当選 以後4期に渡り自民党県議団幹事長、 名古屋港管理組合副議長 等歴任 |
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日本舞踊をはじめる | ||
1970年 | 白山中学入学 | |
1971年 | 茶道をはじめる | |
1973年 | 聖霊高校入学 一年間寮生活を送る | |
1974年 | 茶道免状取得 濃茶をはじめる | |
1976年 | 聖霊短期大学 家政科入学 一ヶ月間 アメリカ アリゾナ州へホームステイへ行く |
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1978年 | 常磐女学院 洋裁課程入学 中学生の家庭科の教員資格取得 | |
1979年 | 長男 幹晴が交通事故により他界 享年26歳 | |
父 今枝敬雄が衆議院に出馬するも僅差で落選 | ||
結婚 投票日の前日に早産ながら 長女 絵美を出産 |
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1980年 | 父 今枝敬雄 衆議院に初当選 以後3期に渡り 衆議院議員として 自民党愛知県支部連合会顧問、衆議院法務委員会 筆頭理事、経済企画政務次官、運輸政務次官 等歴任 |
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1988年 | 子育てが一段落し医療事務の資格取得 | |
1999年 | 父 今枝敬雄 内閣府より勲二等 瑞宝章を受勲 | |
2012年 | 父 今枝敬雄 永眠 享年87歳 宮内庁より従四位を賜る | |
2013年 | 父の遺志を継ぎ愛知県会議員に中区より出馬を決意 |